お客様の声

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※個人の感想です。

「補聴器と私」 長野市 K.S様

        

補聴器を耳からはずし、両手を差出して待つ店の者に渡す。ここは理髪店である。補聴器は鏡の前の定まった場所に丁寧に置かれる。私は数年前から、木曜日はここへ来る。なぜ木曜かと言うと、カルチャースクールに金曜土曜と出席するので、一応身だしなみを整えてという事で、洗髪し整髪して貰う。店は家からすぐ近くにあり、長年わたしの家族とも知己であり、年と共に足が弱くなり少し距離のある美容院へ行くのが億劫になり、こちらに鞍替えした。シャンプーの泡の仲で頭皮をマッサージして貰うと、全身がほぐれていく。十分すぎるくらいの洗髪が終わるとタオルで水気を取り、補聴器を大事そうに私の掌にのせてくれる。早速耳に差し込むと、音の途絶えていた世界から一辺に色々な音が飛び込んでくる。

 

生き返った様な瞬間だ。それまでは遠慮して話しかけなかった店の者は、待っていた様に話しかけてくる。最後の仕上げはマスターがする。新婚間もなくここに店を構えた彼も、最近はさみを使う時は老眼鏡を使うようになった。老いた私の健康を常に気づかってくれ、又喜ばせるような話題を持ってきてくれる。「大ちゃんから何かニュースが来ましたか?」私の愛する初孫大介は、三月お嫁さんをもらった。可愛らしい女の孫が増えた様で嬉しい私は、細々と二人の話をする。補聴器あればこその楽しい話のやりとりである。綺麗に仕上がった髪と楽しい会話で、幸せ気分で家に戻る。

 

補聴器は耳の補装具ですと教えられて以来、私は寝るときと入浴以外、補聴器を離す事ができなくなった。あれは補聴器を使い始めて何年位たった頃だったか。健全だった時の聴力と比べて、補聴器の不満をお店に行っては並べたて、その都度話を聞いてもらい、補聴器を見てもらい、不承不承何とか使用していたある日、店長から義手や義足は、その部分が欠損した為それを補う補装具で、新しい手や足ができたのではなく、あくまで補装具なのだ。補聴器は耳の補装具であると教えられ、私は納得した。不思議に納得し理解できたら、様々な不満がいつか消え、補聴器に合わせて生活するようになった。慣れもあるかもしれないが、装着したのを忘れている事もある。

 

聞こえない事で社会から離脱し、自分の世界に閉じこもってしまうのでは、折角の人生を淋しく終わらせてしまうのではなかろうか。又、自分では聞こえの悪いことで周囲に迷惑をかけている事に無頓着の人も、いつかみんなから疎外視されることもあるだろう。確かに補聴器にも問題はある。しかし不自由を我慢したり、購入したのに放置したりでは、損失が大きいのではないだろうか。売る側も医者が患者を見る目でユーザーをケアしてほしい。私は八十二歳。補聴器をつけてカルチャースクールに通い、写経と琴の指導を受けている。講義を聴き筆を運びお経を書き、若い人に混じって琴の演奏会に出演して、楽しく生き甲斐のある人生を送らせて貰っている。

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